大工の歴史についてうんちく話をしようかと思います
大工の歴史についてお話すると
江戸時代の大工さんは、花形のお仕事と言われていました。
そんななか、花形職人と言われる一方でありましたが、
職人になる為には厳しい道のりがありました
大工になる為には、12歳から修行入りをして、親方の家の掃除・飯炊き・お風呂
夜遅くまで雑用に追われる毎日を過ごして、一年・二年経って、現場に出してもらえますが
それでも仕事させてもらえず、修行の日々。20歳になっても、半人前と言われる世界でした。
今のご時世なら、大変な騒ぎになってしまうものだと思います。
パワハラと言われてしまうぐらいのお話です
では、歴史上に優れている大工とは誰?と言われると
左甚五郎 「ひだり じんごろう」
日光東照宮の彫り物として有名でした。
さらに、もっと江戸時代以前でお話をすると
「大工の神様」と言われていたのが聖徳太子と言われています。
「差し金」を中国から広めたのが、聖徳太子ともいわれています。
法隆寺の建立にも尽力された方でも有名です。
太子講というものがあって建築技術を学ぶ講義があったらしいです
そうやって、色々な歴史が形成された訳なのですが、
岩手県にも関係する言葉もご紹介します。
「気仙大工」という言葉はご存じでしょうか?
江戸時代の話になるのですが
江戸以外の地域にも大工の活躍の場が広がり、地方の街づくりに携わる職能集団も生まれました。
なかでも有名なのが、岩手県の大工集団「気仙(けせん)大工」です。
気仙という地域は、今で言うと、大船渡・陸前高田の地域ですね
気仙大工というのは、技術と豊富な経験・強い結束力を持って、時には他藩の災害復旧や施設建築の為出張する事が多かったと言われています
こうして気仙大工というものは広まっていき、現代にも伝わっていったとされています。
気仙大工伝承館というのが陸前高田のあります。
大工といっても、また細かく分割されているのですが・・・
宮大工とか船大工とか家屋大工とか
これを説明すると長くなるので次回にお話したいと思います
この大工について調べていくと、失われてしまう技術があるのが
悲しい話もあるかと思います。
素晴らしい技術があるのにも関わらず、それを使う場がなくなってしまったり
時代の流れによって無くなってしまう技術もあるのも事実です。
1500年前に建てたとされる法隆寺は、地震で倒れたという歴史はありません。
地震大国と言われている日本でそれは世界に誇るべき技術です
効率化・コスト削減・施工のスピード化
こういったものを目指した結果失われてく技術もあるのかなぁと
考えます
今回はここまでです。
また次回お会いしましょう。